ルカによる福音書20章20-26節の本文は、新約聖書の中でも比較的よく保存されており、本文批評上の大きな論争点は少ない箇所の一つです。これは、この物語がイエスの教えと生涯における重要な場面として初期の教会で広く認識され、比較的安定して伝えられてきたためと考えられます。
しかしながら、全く異読(写本間の読みの違い)が存在しないわけではありません。多くの場合、それらは意味に大きな影響を与えないマイナーなバリエーションです。本文批評家は、以下のような点に着目してオリジナルの本文を再構築しようとします。
- 単語の有無や置き換え:
- 接続詞(例: καὶ, δὲ)、冠詞、代名詞といった短い単語が、一部の写本で省略されたり、逆に付加されたりすることがあります。
- 意味が近い同義語に置き換えられることもあります。
- 例えば、20節の目的や結果を示す「ὥστε παραδοῦναι αὐτὸν (彼を引き渡すために)」という表現について、一部の写本では「εἰς τὸ παραδοῦναι αὐτὸν」や単に「τοῦ παραδοῦναι αὐτὸν」といった不定詞の用法に僅かな違いが見られる可能性が理論的には考えられますが、これらは意味のニュアンスに大きな変化をもたらすものではありません。現在の主要な校訂本文 (Nestle-Aland 28版やUBS 5版など) では「ὥστε」が採用されています。
- 語順の変化:
- ギリシャ語は比較的語順の自由度が高いため、強調や文体の好みによって単語の順序が入れ替わることがあります。これも意味内容を根本から変えることは稀です。
- 文法的な変化:
- 動詞の時制、法、態がわずかに異なる異読や、名詞・形容詞の格が異なる異読が見られることがあります。
- 例えば、22節の「ἔξεστιν ἡμᾶς Καίσαρι φόρον δοῦναι」(私たちがカエサルに税を納めることは許されているか)において、不定詞の意味上の主語である「ἡμᾶς」(私たちを、対格)が、ごく一部の写本で「ἡμῖν」(私たちに、与格)となっている可能性も考えられなくはありません。しかし、対格が標準的な用法であり、主要な写本の支持も厚いため、「ἡμᾶς」がオリジナルの読みとして広く受け入れられています。
- 特定の写本系統に見られる特徴的な読み:
- 西方写本群(Codex Bezaeなど)は、時に他の写本系統に見られない独自の読みや加筆を含むことで知られていますが、この特定の箇所において、意味を大きく左右するような西方テキスト特有の主要な異読は報告されていません。
この箇所における本文の安定性について
ルカ20章20-26節に関して、主要なギリシャ語新約聖書の校訂版(例えば、Nestle-Aland Novum Testamentum GraeceやThe Greek New Testament (UBS))の欄外註(apparatus criticus)を参照しても、この数節の範囲では、意味解釈に重大な影響を及ぼすような大きな本文批評上の論点はほとんど提示されていません。これは、この部分のテキストが写本伝承の過程で比較的安定していたことを示唆しています。
結論として
ルカによる福音書20章20-26節の本文は、全体として非常に良好な状態で保存されており、現代の学術的な校訂本文は、オリジナルの記述に極めて近いと考えられています。細かな異読は存在しうるものの、それらがこのエピソードの核心的なメッセージや物語の展開を揺るがすことはありません。
本文批評は、現存する多数の写本を比較検討し、それぞれの異読の起源や伝播の経緯を分析することで、可能な限り元の本文に近づこうとする継続的な学問的努力です。この箇所に関しては、その努力の結果、比較的確かな本文が得られていると言えるでしょう。