たいへん興味深い比較です。ルカによる福音書20章1–8節のイエスと宗教指導者との問答──とくに、イエスが問いに対して問いで返し、相手の自己認識や内的誠実を試す姿勢は、東アジア仏教における「禅問答(公案)」との類似性を感じさせます。しかし、両者の目的・方法・前提となる世界観には重要な相違もあります。
以下に、共通点と相違点を5項目に分けて論じ、最終的に神学的・宗教哲学的な対話の可能性について考察します。
【1】形式:問答形式による「直接的でない」応答
類似点:
- 両者ともストレートに答えない。
- 禅では「問いに答えず、禅師がさらに奇妙な問いや沈黙を返す」。
- イエスも「どんな権威で?」という問いに対し、別の問いで応答し、「私も言わない」と沈黙を選ぶ。
→ 問いに問いを重ねて、相手自身に“答え”を気づかせる構造は共通。
相違点:
- 禅問答は、論理的言語による悟りの伝達が不可能であるという前提に立ち、「非言語的直観への転換」を促す。
- イエスの問答は、相手の欺瞞や恐れを炙り出し、真理への誠実さを促す対人的・倫理的問答であり、人格的な神との関係を前提とした言語的関係性の中でなされる。
【2】沈黙の役割:語らぬことの意味
類似点:
- 禅において、沈黙は「最上の答え」とされることがある(例:趙州和尚の「無」)。
- イエスも、「わたしも言わない」と語らないことで、真理への到達を強制せず、相手の姿勢にすべてを委ねる。
→ 沈黙が単なる回避ではなく、真理への態度を試す「鏡」として働いている。
相違点:
- 禅では沈黙が**真理そのものの現れ(無記、空)**であることがある。
- イエスの沈黙は、相手の不誠実さに対する応答停止であり、人格神による判断保留・自由の尊重という性格をもつ。
【3】主体の変容:悟り・悔い改め・信仰の目覚め